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| 遠藤純男先生の 学生時代のこと |
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| 遠藤純男先生からいただいた資料、遠藤先生の後輩で日本大学で柔道部に所属していたS先生(現在、郡山市内で、小学校の教員をされています。)や、遠藤純男先生のお兄さんに教えてもらったことなどをもとにまとめました。 | ||||
| 小学時代 | 小さな頃は外で遊ぶのが好きで、チャンバラごっこやビー玉、メンコで真っ暗になるまで遊んでいた少年だったそうです。 | |||
![]() 遠藤純男先生が、柔道を始めるきっかけとなった話です。 小学5年の時です。担任の先生が体の大きな純男君に「すもうとっぺ」それに対して「とんね」。「すもうとっぺ」「とんね」の繰り返し。やりたくなかった純男君はしゃがんだ所に、はずみで押されたような感じになり、倒れて純男君は捻挫をしてしまいました。 通院した先が、当時、中町で整骨院を開業していた佐藤政雄先生(故人:当時福島県 県南柔道連盟理事長)の所でした。(運命的な出会いでした。)治療した後、先生から「いい体してるね。柔道やってみないかい。」と勧められました。これが、遠藤純男先生が柔道を始めるきっかけとなった出来事のようです。 佐藤政雄先生から、「おまえ、受け身がうまいな」と最初に褒められた時の事はよく覚えているそうです。受け身はけがをしないために重要で、柔道の上達にもつながります。それから、うまくなると褒められ、本当にうれしかったそうです。先生に褒められたことがますます柔道に熱中していった要因となったそうです。 |
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| 小学6年の頃は、慎重166p、体重88sあったそうです。地元紙に「怪童現る」と取り上げられたこともあったそうです。 | ||||
| 中学時代 | ![]() 中学校の県南地区柔道大会で遠藤純男選手は、並み居る強豪を相手にして優勝したことがあったそうです。その時に賞状と盾(初めての盾)をもらって家に喜び勇んで帰って遠藤純男さん。てっきりほめてもらえるかと思って有頂天になって賞状と盾をお父さんに見せました。そうしたら、お父さんは「小さい盾だな、目に入れても痛くないような盾だな。」と一言。遠藤純男先輩は、愕(がく)然としました。それと同時に、「なにくそ、もっと強くなって、もっと大きな盾、目に入れていたいような盾をとれるように頑張るぞ。」という気持ちになったそうです。 遠藤純男さんは、「あの時の、お父さん(おやじ)の一言があったので今の自分がある。」と語ったそうです。 お父さんにしたら、純男はもっともっと強くなるはずだ。こんなもんで満足しちゃいけない。もっと大きくなってほしい。本当は誉めてあげたかったけど、その期待を込めて、「小さな盾だね」と言ったのかもしれません。 |
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![]() 中学校での練習のほか、夜も当時八幡神社の隣にあった武徳殿で大人に交じって稽古に励み、力をつけてきました。 |
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| 高校時代 | 高校に進学しても、柔道部に入って稽古を続け、このころには相当に実力をつけ、大会などは、高校の部でなく一般の部で参加するなど、超高校生選手として頭角を現してます。 |
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![]() 高校時代は、柔道部監督梅津光位先生との出会いがありました。先生の指導を受け、実力がメキメキとアップしていったそうです。この頃は、県外の合宿や大学の合宿にも参加したそうです。もちろん武徳殿でもみっちりと練習を重ねたそうです。 高校3年の時(昭和43年、今から41年も前の時です)、ハワイ遠征に行く機会がありました。全国から12名の選手が選ばれたうちの一人だったのです。そこで、ライバル達と練習して自分のレベルを知り、「あとこのくらい努力すれば追いつけるんだ」と練習に打ち込んだそうです。それが、1970年の全日本ジュニア選手権優勝などその後の成績につながったのだとも教えていただきました。 ここで、ハワイでのエピソードを一つ紹介します。1ドルが360円の時代。日本から海外に行くのに100ドルしか持ち出せなかった時代でもありました。遠征先で遠藤純男さんは生まれて初めてステーキというものを食べたそうです。(当時の高校生は、ステーキなんぞを食べられる人はほとんどいなかったという時代です。)美味しそうなステーキが出てきた所まではよかったのですが、焼き加減はミディアム。その時は、生肉は食べられないと思って、とっても残念だったけど、焼けている部分だけを削って食べたそうです。 こんなエピソードもありましたが、中学、高校時代を通じて言われていることは、とにかく稽古熱心であったということです。 また、教えられたことを受け入れる素直さがあったということです。 |
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![]() 当時、日本大学工学部で事務局長をされていた石田昭二先生(故人:日本大学(本部)体育会柔道部顧問、日本大学本部人事部長で退職、全日本柔道連盟理事、東北柔道連盟副会長、福島県柔道連盟会長)にその才能を認められ、日本大学へ進学することが決まりました。 |
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| 大学時代 | 現在のように、階級が細かく分かれていなかった当時の日本(学生)柔道界では、身長が170Cmと日本人としても小柄な方で、並み居る大型選手と互角に戦うためには必殺的な技と気力・体力が求められ、これを補うためには人一倍の稽古量が必要と、文字通り寝る間を惜しんで練習したことは有名で、日大柔道部の伝説となっています。 |
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このころの努力が、後に世界選手権やオリンピックで世界の選手を相手に戦う上で大きな力となった事は自他が認めるところで、技や力を高める努力は人並みにはずれたものがあったと言われています。 |
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日大柔道部時代は、合宿所と呼ばれる寮で寝起きし、大学へ通いながら練習をしました。 |
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![]() 合宿所は、道場に宿舎が併設されている寮で、正月とお盆に帰省できる程度で、年間を通して合宿をしている。朝は5時30分に起床。6時からランニング(約10km)を中心としたトレーニング。 7時30分〜朝食。午前中は大学へ。 午後3時から6時まで道場又は講道館・警視庁武道館で練習。合宿中は午前9時から12時まで、午後3時から午後6時30分まで練習をしました。休養も大事なので夜遊びなどはしなかったそうです。 |
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![]() 春には全日本の強化合宿、夏は遠征合宿(地方)があり、年間を通して柔道に打ち込んだ生活をしていたそうです。 |
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大学4年の時には、福島県人としては初めて、名門日本大学柔道部の主将となりました。 |
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| 卒業後 | たいへんな練習をたくさんして、自分を鍛えてきた遠藤純男さんに、「柔道をやってきて、つらいと思ったことはないですか?」と質問してみました。 そしたら、「常に前向きに自分の道を切り開いてきたので、つらいと思ったことはなかった。」そうです。「自分に合ったスポーツを見つけられたのは、幸運だった。」とも話されていました。 |
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| 柔道と出会ってから45年。柔道と共に歩み、二度の五輪(モントリオールで選手とアテネで審判)、二度の世界一、そして遠藤純男さんにとって夢であった日本一も達成できました。柔道が大好きで、日々の稽古で持っている力を出し尽くし、そして、人一倍努力をされた結果なんです。 遠藤純男先生は、「今の若者と話をしていて感じるのは、自分の能力を出し切らないで自分自身を評価し、限界に挑戦することなく夢を捨ててしまう若者がたいへん多いということ。とても残念なことだ。一生懸命スポーツや勉学に励んでいる皆さん。夢と希望と目標をもって努力することを忘れず、歩み続けていただきたい。」という熱いメッセージもいただきました。 |
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